2018年5月19日土曜日

映画の感想

映画の感想。
映画好きによるみんなのための映画感想、ではないから参考にしないで欲しい。
あくまで自分の感じたことを残しておいて、あとでその考えの移り変わりを眺めて悦に入るためだけのものである。

フラガールという映画を見た。
2006年公開。実話を元に。
こういう芸術音楽サクセスモノって好き。
「天使にラブソングを」とか「スクールオブロック」とか「スイングガールズ」とか。

熱血。めっちゃいい映画です。好き。
初めてみた当時、多分10年ほど前になるんだろうか、新聞写真の映像がそのまま動画になって動き出す演出に驚いた覚えがある。
今や珍しくも不思議でも何でもないのに映像技術の進歩を感じる。
更にそういう演出を一般人である我々が容易に生み出せる、発信できる、となっているという事実も、社会が移っていっているという実感を与えてくれる。
私がぐーすかしている間にもきちんと世の中は移ろっていたのだ。


さて、映画の中の一場面に
「親の死に目にも会えないのがプロなんですか!?」
といったようなセリフがある。
そこからまぁそういうプロ意識賛美的な流れになっていく?なって行ってる?ような感じで。
果たしてそれが現在も両手放しで推奨されるようなものなのだろうか、という感想を抱いた。

もちろんこの演出がプロ意識賛美となっているかどうかは断定できないけれど、今の私が見ているときはそういう受け取り方ができた。
この印象自体も見るタイミング次第で変わってくるんだろうけど。

プロのダンサーとしてステージに立つなら己を殺しなさい、客を楽しませなさい、という意識なんだが、
プロだろうが何だろうが、一人の人間として、優先するべきコトは自分で守らなければならないのではないかと私は思っている。
たとえプロでも自分の一番大切なものがあるならば仕事であろうと投げだしてしまってそちらを優先する方が、”にんげんらしい生き方”を送るには必要になってくるんではないかと。
その最優先が仕事にあるのなら当然何よりも仕事に打ち込めば良いだろうし。
その自分の人生の中で優先するコトを選択することができる、というのが”にんげんらしい生き方”じゃないかと、今の私はそう考える。
そして他人が優先するコトをお互いに尊重できる社会が”にんげんらしく生きられる社会”ではなかろうか。

お客様を楽しませることに至上の喜びを持って、そこに達成感なり充足感なり幸福感を得られる人はとても素晴らしい人だと思う。けれどそうでない人が責められるというのはとても悲しい。
お客様至上主義、プロ意識礼賛主義はとても”にんげんらしく”は生きづらい世の中なんだろうなあ。


という、およそ”フラガール”という映画からはたどり着きえないような感想を抱いた。
めっちゃいい映画です。好き。

2018年5月6日日曜日

どきどきした

何年振りかにこのゴールデンウィークとかいう世間の連休にお休みをもらってしまったあげく、暇に暇を持て余し、ベッドに根を張り、神さびた森閑さとともに天井の染みを数える日々を送るだけだった私。
このままではしめ縄巻かれて参拝客が来かねないと危機を感じたため、ベッドの足に絡みつく根を引きはがし、人の世にいざ踏み出でんとす!!

というわけでこの五月五日のこどもの日、滋賀県は大津にあるびわ湖ホールで行われていた音楽祭へ行ってきました。
ネットでぽちぽちしてたら音楽祭やってるーっての見て、当日前日でもチケット買えたから買っちゃった。
初の一人コンサート鑑賞デビューだ。どっきどきだね。

何度も何度も前を通り過ぎてきたびわ湖ホールだけど中に入るのは初めて。
びわ湖ホールっていうのは劇場らしい。
”国内3番目にできた4面劇場”らしい。
4面っていうのは同じ広さの舞台が正面・右・左・裏とあって、同時期に色んな公演できるようになってる舞台のことらしい。wikipedia調べ。

ちょっと早いかなーぐらいに買ったばかりの車で出たら道も混んでて意外とちょうどよく到着。

中はいったらBGMがクラシック音楽だー、さすが音楽祭だーとか思ってたら
ロビーで生演奏してた。
さすが音楽祭だ…。
中すっごいきれい。
琵琶湖の真ん前のロケーションも素晴らしい。
いいトコや。

大ホールの1Fの後ろの方でしたけどめっちゃ良かった。

大阪フィルハーモニー交響楽団てオーケストラで、ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」って曲でした。
初めて聞いた。
けど生オケ自体小学生の時以来の20年以上ぶりだし、めっちゃ良かった。
鳥肌立った。
どきどきした。
曲全体は結構自分好み。派手な曲好き。
フルートの第一奏者が凄い存在感あった。
あとピチカート続くところ好き。
指揮者の方がとても楽しそうだったのが印象的。

音楽祭の一プログラムだからアンコール曲無かったのかと思ったら、今調べたら長い交響曲とかは無いもんなんだ。
ひとつ賢くなりました。

大きいホールでのコンサートじゃ仕方ないけど、咳とか音は気になるもんだなぁ。
一人でヘッドホンで音楽聞いてるときにはない問題。
意外と響くのが紙のプログラムの折れ曲がる音。
カサッとかパキッっていうのが。
最初にしまっておいてよかった。今後自分も気を付けよう。

なんにせよ良い経験でした。
意外とお手頃でコンサートへ行けることもあるということを学べました。
あと生オケは良いものだということも再確認しました。
また調べてみよ。
なんか行進曲特集あったらいいのになあ。

2018年3月29日木曜日

季節は巡る

流れる歌は唐突に止んだ。
背をもたれ目を閉じ、余韻に肩まで浸りながら再開を待つ。
風と共に消えた歌は耳の奥でまだ響いている。
再び目を開けると強い日差しが目に刺さる。
春は終わりつ。

<ルブ伝記 第五章 春の歌より>



2018/3/27
秩父宮記念公園
桃の花
背景がきれいに切り取れました。


色々と色々に色々なことがあって現職を退くこととしました。
なんやかんやあったけれど、まあなるようになったもんだ。
春からはまた新しい仕事。

その前に少しゆっくり実家に帰ります。

……というつもりでしたがこれがなかなかに忙しい。

実家へ帰る →実家でラーメン食べる →町田でラーメン食べる →八王子でラーメン食べる →八王子でソムタム食べる →秩父で温泉入る →御殿場でラーメン食べる →沼津で太刀魚フライ食べる →三島で吊り橋渡る →実家でカニを食べる →ゴロゴロする ←いまココ

という具合。ラーメン食べすぎ。
その後、

→キリンディスティラリー工場見学
→足柄SAでお土産買う
→旧友に会いお酒をしこたま飲む
→ゴロゴロする
→さわやかへ行きそびれる
→関西へ帰る

という具合。
なんやかんや忙しくてのんびりできたの1日ぐらいだ。
まあたまに実家へ帰るもんだからアチコチ連れて行ってもらえるわけだ。

ゆーてる間にもうすぐ4月だし。
休みのうちにやりたいことがいろいろあったけどろくに出来なさそうです。

2017年11月3日金曜日

「寂寥」と「寂寞」という言葉の違いを考えてみた。
どちらも物寂しい様子を表すための言葉。
二つの言葉が存在する以上そこには何かしら違いがあるのではないか、と。

しかし
これを必死になって研究して、
その結果、明確な区別やハッキリした使い分けが存在することを突き止めたとして、
それを実践したところで
分かるものは自分だけ、という事にしかならない

と思うと
真に重要なのはその意味的な使い分けよりも、字的・音的な使い分けかもしれない。


というところまで考えたけどお酒飲みだしたから分かんなくなってきた。

2017年11月2日木曜日

ぶんがくのはなし

島崎藤村の破戒を読んだ。 ちょっと触れがたいテーマながらも、名作だった。

"踏む度にさくゝと音のする雪の上は、確実(たしか)に自分の世界のやうに思はれてきた。" ヒュー!

でも結局自然主義文学ってのが何なのかはよく分からなかった。 客観性、ありのままを描写するてことらしいけど、さらに遡らないとここの違いは分からないんだろうか。


というわけで先日も書いた、自然主義文学の代表作、島崎藤村の破戒を無事読み終えた。
進めるうちは心が重く重くなっていったけれど、読み終えるとすごくスッキリした感じ。
青空の下で冬の風が吹き抜けるような気分。
素直な描写が信州の自然を思い浮かばせてくる。
華美な装飾をせずに淡々と事実を書き連ねていくのが「自然主義」なのかもしれない。
学術的なことは良く分からない。

道徳的・宗教的観念を排除した近代文学として登場したのが当時としては衝撃的な形態だったのかもしれない。
そこから個人主義的な人間らしさを表現する白樺派やら、自然主義より一歩踏み込んだ反自然主義と呼ばれる派閥が出てきて、再び美に回帰する耽美主義とやらが生まれてくるらしい。
私の好きな夢野久作はこの耽美主義らしい。
「美」と呼んでいいかは分からないけど読むと惹きつけられる空気がある。
これを「美」というのだろうか。

そして坂口安吾の戯作的要素を重視した無頼派ってのが出てくるんだと。
太宰もこの無頼派。



こうしてみると、少しずつ読んだことある作家が増えてきてる。
歳を重ねるとはこういうことか。
小学校、中学校の図書館の主達はこういうもの経験してきたんだろうなあ、と思うと羨ましい。

表現の世界は奥が深い。

2017年10月31日火曜日

我身の病の為に三十までは生きぬと思った。
山中に死すべしと思い乍ら、当もなく丘に谷に気儘に駆けた。
いざ斯うしてあっさりと三十を越えてみると、其処には不毛な荒野が広がっていた。
蓄えも無く素寒貧のまま寂寞たる荒野に立ち、眺むるは先に越えてきた青山ばかり。
病は斯身から去り、残るは山越の疲労ばかりであった。
さてどうしたものか
機械的に歩を進め乍ら浮かぶ月をぼんやりと望む。


2015/11/28
円山公園
鯉がいるんだよね
よく眺める
変わったたこ焼きを食べた気がする
まだあるのかな


今日は駐車場にあった苔を剥がして回った。
この小さな生き物の共同体には数世代に一度の大災厄だったのだろう。
我々の周りの災難もこのような家主の気まぐれでかき回されて起こっているのだろうか。
人類のこの繁栄は家主のスコップが襲ってくる合間の刹那の出来事なのかもしれない。
次の瞬間にはこの宇宙ごとスコップで取り除かれてビニール袋にぽいっと放り投げられる。
そんなことを考えながら苔を剥がして回った。

2017年10月29日日曜日

トンテキ食べた

足を止め巻煙草に火をつけると、憂鬱な紫をまとった煙をぷうと吐き出した。
足早に駆け抜けた嵐の残党がすぐにかき散らしていった。
雲の流れは速く、後ろに隠れた半月が頬をちらちらと覗かせる。



2016/2/8
ユニバ レストラン
凄くアメリカーん。
右にやや傾いている。
修正するの面倒なのでそのまま。


今日は何をしたというと特筆すべきことも何もなし。
松屋でついついトンテキ定食なるものを食べてしまった。
ニンニクの効いたソースに極厚のトンテキ。
嚙みきれない。
精がつく気がしました。新米と合わせて大変おいしゅうございました。
明日は休みなので何かしたいけどきっと何もしない。
ゆっくりできそう。