「知っている」と「信じている」の違いはドコにあるのか。
かつて私の師は言っていました。
それはその場の話の対象で変わる、と。
例えば
ある地域では、地震はナマズが身じろぎすることで起こる、ということが当たり前のように信じられていたとします。
その地域で、その人たちを相手にする場合
「ココでは地震はナマズが起こしていると知られているんですね」
と言い、
その地域の人以外を相手にする場合
「ココでは地震はナマズが起こしていると信じられているのです」
となります。
これはまぁまるっきり見当違いな方向を指しているという訳でもなさそうな気がします。
それが本当に正しいのか間違っているのかはともかく。
知識と信仰はその信仰の内側にいるか外側にいるかで変わるのかな。
むかしむかし
この世界は、神様が6日間で作ったと知られていたり、巨人の死体で作られたと知られていました。
一方現代では
地球は丸いと信じられていたり、世の中の物は分子っていう小さい粒が構成してると信じられてたりしますね。
私が当たり前に「知識」としているものも、そう信じているだけというものが多いんだろうなあ。
実際に私たちが真偽を判断出来るものはそう多くないのでは、と私は信じています。
地球が丸いって言うのを自分で見たわけじゃないし。
写真ってのは見たままの物を映すことが出来るんだと信じて、丸い地球の写真を見て地球は丸いんだと信じて。
そうして私たちは自分で得た何か以外のものを信じて、それを「知識」と呼んで蓄えていくのかもしれません。
そうやって考えると、「経験」と「知識」の差っていうのは本当に埋めがたいのだと思えてきます。
知識は豊富だが経験不足っていうのは信仰心に篤い敬虔な信者のことか。
うーん、自分が陥りがちな方向だわ。
そういう経験ですらも信用に足るものでもなく、
そもそも自分の目や耳が自分の外側の世界を正しく認識しているのかどうかすら怪しいものです。
目が悪ければ歪んで見えるし、耳が悪ければくぐもって聞こえるし。
そんな中で何かが絶対に正しいとか絶対に間違っているなんてハッキリ言えるものがどれだけあるのでしょうか。
……さあ、なんだか話が懐疑主義っぽくなってしまいました。
我思う、故に我あり ってね。
知識について考え出したら避けては通れぬ問題ですが。
まあ、そういう「知識」というものに対する前提があった上で、
私は全知を手に入れたいです。
本当に世界のことを何も知らないからこそ手に入れたいのです。
もしアカシックレコードなんてものがあったら、ころしてでもうばいとるね!ためらわないね!
うーん、うち、宗教とかドはまりしそうなタイプな気がしてきた。
気をつけよ。
今は立派な唯物科学教徒だけど何かの拍子にコロッと行くかもしれないからなあ。
それはそれとして「間違った知識」という言葉にモヤモヤを感じます。
間違ってたら「知識」として成り立たないと思うんですが、言葉としては成立してますよね。
うーん、モヤモヤ。
「生のゆで卵」的なモヤモヤ。
気付けば、またしても結局何を言いたいのか分からない文章がそびえ立っていた。
この文字の壁を乗り越えて明日を生きていこう。
おやすみなさーい